今年2024年は、アスペン研究所の原点となった「ゲーテ生誕200年祭」の開催から75年の節目となります。コロラド州アスペンのさびれた鉱山街の仮設テントから始まったアスペンの歴史について、米国アスペン研究所のエグゼクティブ・ディレクター(執筆当時)、トッド・ブレイフォーグル氏が世界のアスペン関係者に向けて綴ったメッセージを日本語版でお届けします。

1949年6月27日から7月16日まで米国コロラド州アスペンで開催された「ゲーテ生誕200年祭」のプログラム表紙

親愛なる同僚の皆様

本日は、のちに「アスペン人文科学研究所(アスペン研究所の前身組織)」の設立へとつながる、アスペンでの最初の集会が開催されてから75年の節目を迎えます。1949年6月27日、世界中から数千人もの参加者がコロラドの山中にある寂れかけた銀鉱山の町に参集しました。この「ゲーテ生誕200年祭」では、著名な知識人や公人による講演をはじめ、豊かな音楽プログラム、そして自由な対話が、広大な夏空の下で繰り広げられました。では、なぜアスペン、なぜゲーテだったのでしょうか?

創設のビジョンを形作ったのは、ウォルター・ペプケとエリザベス・ニッツェ・ペプケ夫妻、ロバート・ハッチンス、そしてモーティマー・アドラーです。ウォルター・ペプケはシカゴのドイツ系アメリカ人実業家で、コンテナ・コーポレーション・オブ・アメリカのCEOでした。エリザベス・ペプケは文化と自然を深く愛し、知的および社会的な再生の可能性をたたえたアスペンの地に魅了されていました。ハッチンスは教育改革者でありシカゴ大学の学長を務め、アドラーはユダヤ系の著名な哲学者でした。彼らはみな、民主主義の民が道を見失ったとき、何が起こるのかを理解していました。そして、文明の舵取りを取り戻すためには、産業化された都市生活から離れ、知的および文化的な退避(リトリート)をすることが不可欠だと考えていました。そこで彼らが頼りとしたのはゲーテでした。ドイツ、ヨーロッパ、そして人類の文明が生み出した歪みではなく最善の存在に注目したのです。なかでも彼らが目を向けたのは、ゲーテの答えではなく、その時代を超えた問い、様々な人間の知の形式を統合する能力、そして全ての人間の尊厳と可能性を重視する人間中心主義的感性でした。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749年8月28日 – 1832年3月22日)

「我々の時代の困難は、人間の精神の困難である」。これはゲーテ生誕200年祭のプログラムの冒頭を飾った言葉です。小説家トーマス・マン、作家ジュゼッペ・アントニオ・ボルゲス、指揮者ブルーノ・ワルター、劇作家ソーントン・ワイルダーを含む委員会によって組織されたこの200年祭は、「分裂と差別の存在をはっきりと、たとえぼんやりとでも意識している大きな社会が人類の共同体となるためには、人間の共通の精神を見つけなくてはならない」ことを認識していました。委員会は、ゲーテの人間中心主義的精神が、二度の世界大戦、大恐慌、テクノロジーによる社会の非人間化、ソビエトの全体主義の脅威、そして原子爆弾の破壊的現実ののちに、思考と行動の再生を促進することを期待していました。

基調講演を行ったのは、アルバート・シュヴァイツァーです。1953年にノーベル平和賞を受賞したアルザス出身の医師であり、学者、音楽家でもあります。他にもスペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセット、オーストリア生まれでイスラエル在住の哲学者マルティン・ブーバー、インドの哲学者T.M.P.マハデヴァンなどが講演を行いました。エリザベス・ペプケ、クレア・ブース・ルース、エリザベス・マン・ボルゲスはパネルディスカッションで重要な役割を果たしました。聴衆には企業や政府のリーダーとその家族、学者、アーティスト、ジャーナリスト、高校教師、そしてヒッチハイクでやってきた大学生がいました。フィンランドの建築家エーロ・サーリネンが設計したエレガントな仮設テントが会場として使われ、参加者は地元の鉱夫の家に宿泊しました。物理的な贅沢の欠如は、思考と心と精神の壮大さを際立たせました。「ここで我々は自らを欺くことなく強化しようと努める」と200年祭は締めくくられました。「ここで我々はゲーテに立ち戻り、彼を探求し、そして自己をよりよく探求するために、『光を、もっと光を』と叫ぶ。」よりよい社会を目指して自らを探求するこの対話の追求は大きな反響を呼びました。そして1949年12月、「アスペン人文科学研究所」が誕生します。

ゲーテ生誕200年祭は、のちに続くものの種をまきました。姉妹組織であるアスペン音楽祭やアスペン・デザイン会議とならんで、人文科学研究所は過去の理解を通じ、現在を批判的に考え、未来を創造的に考える場となりました。人間中心主義的伝統への信頼の行為として、研究所は対話に基本的な教育的価値を見出し、私たちの視点を広げ、人間関係を深め、そして人間を私たちの活動の中心に据える能力を再生しました。端的にいえば、ペプケは研究所を「人間の精神が花開く場所」にしたかったのです。

最初の20年間、研究所の主要な活動は、人類文明の基本的な価値観とテキストを掘り下げるセミナーでした。バウハウスの芸術家ハーバート・バイヤーが設計したアスペンの常設施設は、会議のためのシンプルながら優美なキャンパスを提供しました。1960年代後半からは、より専門的な政策問題を探る新しいプログラムが始まり、1970年代には国際(特に大西洋間)関係に対する関心が高まりました。1990年代半ばにはセミナーに根ざしたフェローシップ・プログラムが加わり、2005年には、より大規模でより公に開かれた思考・芸術・文化・行動に関するプログラムを提供するアイデアズ・フェスティバルが始まりました。

アイデアズ・フェスティバルなどが催される、現在の米国アスペン研究所キャンパス内に建つ「グリーンウォルド・パビリオン」

研究所は従来から国際的な視点を持っていましたが、1974年にベルリンアスペン研究所(現在のドイツアスペン研究所)が創設されたのをきっかけに、米国外においてアスペン精神を掲げる「アスペン国際パートナー」が組織の重要な存在となりました。すぐに他の国々もこれに続き、1984年にイタリア、1985年にフランス、1998年には日本でアスペン研究所が設立されました。今日までに、13の国際パートナー(そしてアスペン・イニシアティブ・アフリカ)が独自に設立され、資金面でも運営面でも独立して活動しています。そして、真にグローバルなネットワークの一員として独自のプログラムを行い、50か国以上で20本以上のフェローシップ・プログラムを通じて知的および社会的交流を広げています。こうして、ゲーテのビジョンがいっそう実現されているのです。200年祭のプログラムにはこう記されています。「その生涯と仕事において、ゲーテは知の専門性よりも普遍性を、国家よりも人類を、国の力よりも個人の尊厳を代弁した」と。

これらのグローバルなパートナーシップと、米国アスペン研究所による国内外のプログラムは、私たちが人間や社会の課題に向き合い、立ち上がるために設計されています。リーダーシップ・プログラムやセミナー・プログラム、ポリシー・プログラム、パブリック・プログラムを通じて、研究所は大きな人類の友情の精神によって運営されています。これは、共にそして互いに学び、理解し合うことを渇望するものであり、合意を前提とするのではなく、共に生き、共に取り組んでいく意志を共有するものです。

「アスペンとは、リーダーたちが自らを縛る所有物から解放され、視座を高めるための場所だ」とペプケは後に記しています。「自らの人間としての本質に向き合う場所であり、自己認識を高め、自己修正を行うことで自らの人間性への舵取りを取り戻し、自らが望む自己へと近づいていく場所だ」と。75年にわたり、アスペン研究所は人間の精神の可能性に対する信頼の行為として、こうした基盤の上に築かれてきました。この基盤はよりグローバルで包括的なものへと広がり、様々な知と経験の形式や、それらが私たちの共通の生活にもたらす価値について認識を深めています。今日のこの日、私たちは最初の一歩となった果敢な出来事を祝うとともに、次の75年間を想像しながら自らを強化し、自らを欺くことなく進んでいきましょう。

トッド・ブレイフォーグル(米国アスペン研究所シニア・アドバイザー、前エグゼクティブ・ディレクター)

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