今回、私が「リーダーシップと創造性」というテーマを選んだのは、これまで私がジャーナリストとして活動する中で、リーダーシップに関して非常に興味深いことを学んできたからです。それは、リーダーシップとは、ただ単に知性に基づいたものではないということです。頭のいい、知的な人は大勢いますが、必ずしも全員が素晴らしい指導者、リーダーになるわけではない。リーダーには知性だけでなく創造力も必要で、その創造力は謙虚さによって生じてくるものです。謙虚であれば世界に対してオープンな見方を持つことができ、寛容さ、許容力も備わってきます。いまアメリカが日本と共有している価値観とは、まさに創造力と偏見のない心の広さ、許容力であると思います。これらの価値観こそが、日米両国の同盟国としての絆を21世紀においてさらに強めていくものと考えています。

 ここで創造力と許容力、それらを育む謙虚さについて二人の人間、ベンジャミン・フランクリンとアルバート・アインシュタインを例にとって語り、学ぶべき教訓を、今日われわれが世界中で行っているチャレンジに当てはめてみたいと思います。

ウォルター・アイザクソン氏。日本アスペン研究所創立10周年シンポジウム(2008年10月)にて。

フランクリンの許容力

 アメリカの政治家であり科学者でもあったベンジャミン・フランクリンは、ピューリタン移民の17人の子のうち、15人目の子どもとしてボストンで生まれました。10人目の男の子でした。父親は息子を牧師にしようと、当時は牧師を養成する学府だったハーバード大学で教育を受けさせることにします。しかし、合理精神の持ち主であるベンジャミンはあまり宗教的なことに熱心ではなかったので、牧師にするのをあきらめ、兄の印刷所で修業させることにしました。

 父親が大学で古典を学ばせたがっていたのを知っていたベンジャミンは、兄の本棚からプラトンやソクラテスなどまさにアスペン・セミナーで取り上げているような本を持ち出し、独学を始めました。そこで教養を身につけていったのです。

 やがて兄との関係がうまくいかなくなった17歳のベンジャミンは、家出をしてフィラデルフィアに行き、自らの創造力を存分に発揮するために印刷所を開き、新聞を発行し始めます。と同時に、ベンジャミンは地元の若い職人や店主たちを集め、「レザー・エプロン・クラブ」というアスペン研究所と似たようなディスカッション・グループをつくりました。

 このクラブの目的は、アスペン研究所と同じように、素晴らしい本を読み、それに基づいてよい指導者になるにはどのような価値観が必要かを議論しようというものでした。その価値観が何かは彼の自伝の中に表にしてありますが、ベンジャミンは勤勉、正直さ、倹約といったことが書かれた表をもとに、毎週、きちんとその言葉に見合った生活ができたかどうかを自己検証し、チェックしていきました。そして何週間かたったときに、すべての価値観を実行することができたとクラブの仲間に自慢したのです。すると友人の一人がベンジャミンに「ベン、君は試してみるべき大事な価値観を一つ忘れているよ」と言う。ベンジャミンが「それは何?」と尋ねると、友人は「それは謙虚さだ」と答えた。以後彼は、謙虚であることを常に心掛けていました。

ベンジャミン・フランクリンは、生涯を通じて創造力を発揮し、避雷針などさまざまなものを発明したり、新しいやり方を発見したりしました。彼はまた、アメリカ独立運動の指導者の一人として、独立宣言起草委員会の委員に選ばれ、独立宣言の執筆者に任命されています。この起草文には、創造力と寛容さが新しく建国する国家の基本的な価値観であることがうたわれています。

 トーマス・ジェファーソンの独立宣言案では「この真実を聖なるものとしてとらえる」と書かれていた箇所を、ベンジャミンは「この真実は自明の理である」と書き直しています。彼が言わんとしていたのは、建国に当たり、われわれの権利は特定の宗教によって支配されるものではなく、すべての国民の意思を反映したものでなければならないということでした。これは、新しい国ではあらゆる宗教が許容されるということを示していたのです。いま宗教は世界の分裂の原因になっており、許容力が欠けた状態が続いていますが、ベンジャミンはそれとは逆のことを実現しようとしたのです。

ペンシルベニア大学カレッジホール前に鎮座するフランクリン像(Wirestock – stock.adobe.com)

アインシュタインの探究心

 次に物理学者のアインシュタインについてお話させていただきます。アインシュタインは子どものころから頭がよかったわけではありません。言葉の習得にあまりにも時間がかかったので、当時はのろい子どもなどと呼ばれ、見込みがないと退学にまでなっています。しかし、言語習得のスピードは遅かったのですが、判断力のよさにより、アインシュタイン流の創造力を育てていったのです。

 アインシュタインは、話すことは苦手だったので、ものごとを言葉ではなく絵で考えていました。つまり自然の法理を可視化し、数学を可視化する。それはものごとを数式化して見ることでした。この可視的な思考経験を彼はビジュアル・シンキングと呼んでいます。

 アインシュタインはドイツの権威主義的な教育制度を嫌い、もっと自由に創造的に学びたいと思って、17歳のときに家出をし、イタリアに行きます。その後チューリッヒの大学で学びますが、そこでは常に質問している生徒だったので、教師たちに嫌われます。しかしアインシュタインは、従来の常識に対し疑問を提起することこそ、唯一創造的になる方法だと悟るのです。

 教授を怒らせた彼は推薦状を書いてもらえず失業者となり、やっと得た職が、ベルンにあるスイス特許庁の事務員でした。そこで毎週6日間、特許出願を審査する仕事に就いたのです。これをかわいそうと思われるかもしれませんが、彼にとっては素晴らしい職場でした。これによって、さらに創造力が高められたからです。と言うのは、特許庁では、彼が最も得意としていることが要求されたからです。上司は出願書を審査する上で「発明者の前提をすべて疑問視せよ。そして、どのような仕組みかを可視化せよ」と言うのです。

 当時、ほとんどの出願書は時計の同期化に関するものでした。スイスは標準時間を導入したばかりで、ベルンの7時とチューリッヒの7時が同時かどうかが当時の人々の関心テーマだったのです。同期化のための装置の出願を審査しながら、彼は同時とは何かを考え続け、あの相対性理論にたどりつきます。すべての物理学者が模索していたことを、特許庁の一事務員が見つけたのです。

 あなたも私も同じ瞬間に起きるのが同時ということだと思っているでしょう。でもアインシュタインは、なぜそれが同時とわかるのかを疑問視するのです。そこで彼が考えたのは、例えば雷が高速で走っている列車の先頭と最後尾に落ちたとします。すると、プラットホームの右と左で雷が鳴ります。それを聞いたプラットホームに立っている男は、同時に雷が落ちたと言うでしょう。ところが列車の真ん中の車両に乗っている女性は、高速で列車が前進しているので、それぞれの雷が落ちたときにはそれぞれ少しだけ先に行っていることになり、前の雷が先に落ちたと言うわけです。これが相対性原理というものです。

 その相対性理論は、いまの雷の話についてこう言っています。どちらも正しくないし、どちらも間違っていないと。プラットホームに立っている男は、静止して立っている自分が正しいと言う。でも、地球は自転、公転しているので、この宇宙上では誰もじっと立っているわけではない。つまり、すべての運動は相対なのです。だから、どちらも正しくないし、どちらも間違っていない。世の中の現象に絶対はないのだと。何が同時かというのも相対で、それは自分の運動の状況によって決まる。アインシュタインはそこで、時間こそ相対であると大発見するわけです。それは自分の運動の状態によるのだと。

 いまの私の話を全面的に理解できなくても、皆さんは許されます。1905年に彼が相対性理論に関する論文を書いたとき、あまりに創造的すぎて、物理学会は彼にその4年後まで教職を提供しようとしませんでした。でも、アインシュタインがそのような常識の枠から外れて考えることができたので、あれだけイマジネーションに満ちた理論が、20世紀の科学界において生まれたわけです。

プリンストン大学近くのアインシュタインハウスに建てられた銅像(PhotoSpirit – stock.adobe.com)

グローバル化の中の寛容と創造性

 その創造性と許容力と想像力と言えば、私は日本とアメリカが同盟国になったときを思い起こします。第二次世界大戦後、1940年代の後半から50年代前半にかけて、あの時代の創造力には素晴らしいものがありました。そこで発揮されたリーダーシップは創造力が基盤になっており、われわれは世界の新しい仕組みを次々につくり出したのです。

 その背景には、第二次世界大戦直後にわれわれが直面していた新しいグローバルな問題、ソ連共産主義による脅威がありました。それに対抗するために、いろいろな新しい制度をつくったわけです。マーシャル計画しかり、さまざまな軍事同盟しかり。また、強い経済こそが民主主義を強く守ってくれるということで、世界銀行ができ、IMFができ、WTOやGATTができました。アメリカのアスペン研究所もその時代につくられています。それは、われわれの価値観をもっとみんなに理解してもらうためでした。

 それら創造力の爆発は、われわれに大きな刺激を与えてくれます。なぜならば、今日われわれは再び大きなグローバルな問題に直面しているからです。冷戦の終えん後、一部の人はこう言いました。もはや大きな問題はこの世では発生しないだろうと。ところがいまわれわれは、二つの深刻な、予想もしていなかった問題に立ち向かっています。

 その一つは、イスラム原理主義者の中のテロに依拠する人たちです。彼らのイデオロギーは、まさに許容と対抗する思想です。そしてもう一つの問題が、グローバル経済の影響ということです。現在、まさに溶融しつつある金融市場の中でも、特にグローバル化の準備ができていない国の金融市場が苦しんでいます。

 その中でわれわれは何をやってきたでしょうか。この新しい問題に立ち向かうために、一世代前の人々が1940年代後半に試みたような挑戦をやってきたでしょうか。否です。われわれは、いまだに古い制度に依存したままです。ですからわれわれは、1940年代後半の人たちのような創造力を持って、さまざまな問題に立ち向かわなくてはいけない。想像力と創造力をベースにして、どうしたら新しい制度をつくれるか考える必要があるのです。

 アインシュタインとベンジャミン・フランクリンは、一生の間ずっと、その創造力を発揮し続けていました。それはまた、許容することの大切さと結びついているものでした。アインシュタインはその生涯の中で、第二次世界大戦を見、原爆後の世界を見ることになりました。彼の相対性理論が原爆研究の基礎になったこともあり、大戦後、彼は本当に世界の平和に一生を捧げるつもりで、新しい創造性に満ちた組織をつくろうとしました。すべての国の核兵器をその管理下に置く、国連以上の力を持った平和組織を構想したのです。残念ながら、その考え方は余りに稚拙であり、実現はできませんでした。しかし、確かに稚拙であったかもしれませんが、同時に非常に創造的でもあったと思うので、彼の提案にみんながもっと真剣に耳を傾ければよかったのにと思わずにはいられません。

 フランクリンも80歳のときに憲法委員会に入っています。すでにそのとき、彼はメンバーの平均年齢の倍の年齢でしたが、もう古い憲法が機能しなくなっていることは十分理解していました。そして、委員会の中に対立が生まれ、うまくいかなくなってきたとき、ベンジャミンは言いました。「私は、ここにいる全員の誰よりも年をとっているが、年をとるにつれわかってきたことがある。それは自分もときどき間違いを犯すということだ。あなた方もいつか、他の人が正しくて、自分がときには間違っていたことに気づくだろう。だから隣の人を見て、彼がひょっとしたら正しくて自分が間違っているかもしれないと考えてみてほしい。そうすれば、妥協点が見出せると思う」と。

 彼が言いたかったのは、互いに妥協することの大切さです。妥協すれば、大きなヒーローにはなれないかもしれませんが、それによって民主主義は進むであろうということです。

 既成の価値が崩れ、新しい秩序をつくり出す必要があるとき、そのような寛容と創造力こそが重要であり、それに基づいたリーダーシップが求められるのです。これらの価値観は自国においても、また世界においても、引き続き私たちが戦っていく上で必要な価値観であることは間違いないと思います。

ウォルター・アイザクソン
1952年ニューオリンズ生まれ。ジャーナリスト・伝記作家、テュレーン大学教授。ハーバード大学で歴史と文学を学び、オックスフォード大学で哲学、政治学、経済学の修士号を取得。「サンデー・タイムズ」紙、「タイム」誌編集長、CNNのCEOなどを歴任。取材嫌いで有名なスティーブ・ジョブズが唯一公認した評伝『スティーブ・ジョブズ』は世界的ベストセラーとなる。他の著書に『コード・ブレーカー』『レオナルド・ダ・ヴィンチ』『イノベーターズ』『アインシュタイン──その生涯と宇宙』など。2003年から2018年まで米国アスペン研究所理事長を務めた。

ウォルター・アイザクソン(ジャーナリスト/元米国アスペン研究所理事長)

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