マルクス・アウレリウス『自省録』の思索

究極のエグゼクティブは時に孤独でもある
「死は誕生と同様に自然の神秘である」(第4巻5)
「自然によることには悪いことは一つもない」(第2巻17)
「すべてかりそめにすぎない。おぼえる者もおぼえられる者も」(第4巻35)
読者諸賢。ここで一分ほど立ち止まって、深呼吸しながら文字列をゆっくりと眺めていただきたい。そこで何を思うでしょうか。
『自省録』とは「五賢帝」の最後を飾るマルクス・アウレリウス(121 – 180)が遺した断片の集成で、題名は後代につけられた。含蓄ある人生訓と、印象深い比喩や逆説にみちた不思議なアンソロジーの世界を造っている。最初から通読するだけではなく、気の向いた折に短時間で拾い読みするのもよいだろう。隠れた愛読者も少なくない。
ローマ皇帝といえば、究極のエグゼクティブ。だが権力の座は、時に孤独でもある。一日の公務から解放された夜半、書斎の机に向かって人知れず、おのれの心中を書き綴った、いわば「霊的日記」。それはあくまで自身のための「覚え書き」であって、誰かに読まれることを最初から意図して書いたわけではなかろう。それにもかかわらず、否むしろその故にこそ、歴史の荒波をくぐり抜けて読み継がれてきた、稀有な書物なのである。
皇帝は、虚栄心や怒りを捨てて「自分自身の叡智」(指導理性 第3巻4)や「内なる理性であるダイモン」(第2巻13)へと立ち返ることを、繰り返し自らに言い聞かせるように語ってやまない。それは「夢の中のものを見ていたように、現実のものをながめる」(第6巻31)思考の訓練でもある。自分を叱咤し吟味する視線は、まさしく内省的な自己対話の記録である。
皇帝の呼びかけが、いつしか自分の分身の声となる
ところが、他人の内省を読み進むうちに、読者は次第に、皇帝その人が「君は」と自分に呼びかけてくるような思いに囚われる。
「君は多くの無用な悩みの種を切りすてることができる」(第9巻32)
訳者の神谷美恵子が病床で抱いた、こうした熱い感懐は、今日でも真摯な読者の感想とも通じるだろう。そこで皇帝の勧告に従って、ひたすら自己の内面を注視しようと努めるうちに、この声は誰でもない、自分自身が発しているかのようにも思われてくる。つまり誰かしら自分の分身たる存在によって、突然語りかけられる不思議を体験するのである。
洞窟で木霊が残響するように、また隣接する二本の弦が共鳴するようにして、人称の転轍が発生する。こうして著者の内省の文字は、読書を媒介にもう一人の内省を呼び起こすに至る。「思考する」とは、徒然なるままに漠然と物思いに耽るのではない。自分に呼びかける他者の声をおのが心の中で培養し、魂の内なる対話に参与することである。
こうした理念は、キケロの文体を模したアウグスティヌスの初期作品『独白録』の冒頭にも結晶している哲学的内省の発端である。
さらにそこから派生して、キリスト教の修道院の中では霊的読書(lectio divina)という伝統を育むことになった。これは、聖書や教父のテクストを、文献や資料として情報収集の対象としたり、客観的に眺めて分析や評論を加えたりする近代的・世俗的読書とは違う。むしろ読者が自分自身に宛てられた手紙のように受け取って、それに応答する。いわば「我―汝」という二人称的な磁場のうちにテクストが置かれて、その言葉が鑿のように読者の魂を彫琢していく修練なのである。
本を読む行為について考え、読書の喜びを知る書物
『自省録』の基調は、何よりもエピクテトスによって内面化・倫理化の進んだローマ帝政期のストア哲学である。だが合理性が強調される一方で、「セネカの文章は知性を刺戟し、エピクテトスの文章は気概を強め、マルクスの文章は心に沁み入る」と評した英国の詩人マシュー・アーノルドや、奇跡を排した「人間イエス」を描いたフランスの宗教史家エルネスト・ルナンが教派を超えた「絶対宗教」や「永遠の福音書」をそこに感じたように、硬質の無常観とでもいうべき宗教的雰囲気に溢れている。だからキリスト教徒、仏教徒、陽明学者などが宗派を超えて、ここに普遍的霊性の発露を感じ取ることもできるのだ。
『自省録』を読むと、そこに盛られている内容もさることながら、改めて「本を読む」という行為は一体何か、考えさせられる。新聞・雑誌やビジネス書のような効率的な情報摂取や薄っぺらな自己啓発とは全く異質の世界が広がっている。それぞれの断章をどう受け取るか、唯一の正解はないし、一回だけの読書では到底汲み尽くすことなどできない。
アスペン・セミナーとの関係でいえば、「ヒューマニティ」のセッションに収録されてもおかしくない。過去に、懇話会や対話ラウンジの企画(2022年6月16日オンライン開催[アスペン・セミナー卒業生対象のイベント])で取り上げられたこともある。一人静かに思いをひそめて読むのもよし、また親しい仲間と読後感をつき合わせてみれば、新たな発見も生まれるに違いない。読書の喜びを味わうことのできる、真の「古典」がここにも眠っている。

参考文献
マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳、岩波文庫、2007
ピエール・アド『生き方としての哲学』小黒和子訳、法政大学出版局、2021
イレネ・バジェホ『パピルスのなかの永遠――書物の歴史の物語』見田悠子訳、作品社、2023
イヴァン・イリイチ『テクストのぶどう畑で』岡部佳世訳、法政大学出版局、1995
荻野弘之『精神の城塞――書物誕生』岩波書店、2009
荻野弘之「マルクス・アウレリウス『自省録』の謎を解く」『思想』(岩波書店)2022年8月号
荻野弘之(おぎの・ひろゆき)上智大学文学部哲学科教授
1957年東京生まれ。東京大学文学部哲学科卒業、同大学大学院人文科学研究科哲学博士課程中退。専門は西洋古代哲学、教父哲学。古代ギリシア哲学を中心にプラトンからストア派、ギリシア・ラテン教父にいたる思想を研究する。著書に『哲学の饗宴――ソクラテス・プラトン・アリストテレス』『マルクス・アウレリウス「自省録」――精神の城塞』『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業』『新しく学ぶ西洋哲学史』(共著)など。
※本記事はアスペン・フェローズ会員向けサイト「アスペン・オンライン・コミュニティ」(2024年5月31日掲載)より転載したものです。
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