0と1の「あいだ」――優柔不断のすすめ

トランプ大統領のデジタル的な思考様式
アメリカのトランプ大統領は2025年1月20日の就任以来、法外な関税政策を始めとして数々の過激な言動で物議を醸してきたが、その中のひとつに「米政府の公式方針として、今日から性別は男女の二つのみとする」という就任演説での発言があった。これは性自認が生物学的性別と一致しないトランスジェンダーや、性自認が男でも女でもないノンバイナリーの人々の存在を真っ向から否定する姿勢の表明であり、当事者たちからはもちろん、性的マイノリティを擁護する立場の人たちからも激しい批判の声があがったことは記憶に新しい。
この発言に限ったことではないが、トランプ大統領の言葉にはしばしば、ものごとを単純な二元論で割り切ろうとする思考様式の特徴が現れている。これは世の中を0と1という二つの数字で割り切ろうとする二進法的な発想であり、その意味では(いささか雑駁な言い方になるが)デジタル的な思考様式と言えよう。その最たるものが「敵/味方」という分断の論理である。
確かにものを考える上で、二元論はきわめて有効だ。アスペンのセミナーで使われているテキストにも、論理と直観、主観と客観、分析と総合、帰納と演繹等々、二項対立的な方法論が読み取れるものが少なくない。漱石の「内発と外発」にしてもパスカルの「幾何学の精神と繊細の精神」にしても、あるいはヴィーコの「クリティカとトピカ」にしてもハイゼンベルクの「部分と全体」にしても、基本的には同様の図式に収まるものである。
二元論をいかにして解決するか
二元論はその性格上、当然ながら対立する項目同士の矛盾をはらんでいる。論理と直観は正反対の認識方法であるし、主観と客観はたがいに相容れない。こうした矛盾をより高次の命題によって解決する方法は、古代ギリシアにおいてすでにディアレクティケー(弁証術)として探求されていた。
ヘーゲルはこれを「正・反・合」、すなわちテーゼとアンチテーゼをジンテーゼへの昇華という形で統合する思考原理(弁証法)として確立した。これにたいして鈴木大拙は『東洋的な見方』において、二元論的分割以前の主客未分離の境地を東洋的思考の本質であるとする(彼の親友であった西田幾多郎が『善の研究』で「純粋経験」と呼んだものもこれと同じ境地である)。ヘーゲルの弁証法が矛盾の存在を前提としながら「上」に向かってこれを発展的に解消しようとするものであるとすれば、鈴木や西田の思想はいわば矛盾が生じる以前の「下」にとどまることで、同一性への還元を目指すものであると言えよう(ただし鈴木の議論には、それ自体が「西洋/東洋」という典型的な二元論にのっとっているというアイロニーがあることにも注意しておきたい)。
言葉で「分け」て「分かった」つもりになってはいけない
私たちはここで、言葉というものの本質に触れている。そもそも言葉とは、世界を分節することによって理解するための手段である。いや、それは単なる手段ではなく、私たちの世界観そのものであると言ってもいい。
よく引き合いに出される例に、虹の色彩の分け方がある。日本人は「虹は七色」と思っているけれど、アメリカやイギリスでは六色(青と藍色を区別しない)、中国やドイツやフランスでは五色(藍色も紫も青に含まれる)、ロシアでは四色(さらに橙色を黄色に含める)と数え、アフリカには暖色と寒色の二色しか区別しない部族もあるという。同じ虹を見ても、連続的な色彩のグラデーションをいくつに切り分けるかは言語圏によって一様ではない。すなわち、言葉が違えば世界観が異なるのである。

言葉は世界を「分ける」。そうすることで世界が「分かる」。この機能を最も単純化したのがいわゆる二元論である。じっさい私たちは「大/小」「高/低」「長/短」「強/弱」「明/暗」「優/劣」「新/旧」「美/醜」「善/悪」「勝/負」等々のさまざまな切り分けによって対象を認識し、事物や人間の価値を判断している。
「文/理」という対立もそのひとつだろう。私たちはなんとなく自分は文系、自分は理系と思い込んでいるけれど、人間はそんなに単純に二分できるものではないはずだ。にもかかわらず、たまたま数学が得意か否かといった理由でいずれかに自分をあてはめて自己規定している人は意外に多いのではあるまいか(かく言う私自身もそうである)。
確かに陸と海は違うし、昼と夜は同じではない。しかし陸と海のあいだには「波打ち際」があり、昼と夜のあいだには「黄昏どき」がある。つまり両者のあいだには明確に分かつことのできない干渉地帯があり、薄暮の時間帯がある。同様に、文と理のあいだにも「文理融合」あるいは「学際」という境界領域がある。このように世界には白でも黒でもないグレーゾーン、0でも1でもない「あいだ」が遍在しているのである。
だからものを考えるにあたっても、本来は分けられないものを便宜的に言葉で「分ける」だけで対象が「分かった」ような気になってはならない。フッサールが主観と客観のあいだに複数の主観の共同性としての「相互主観性」を見出したように、論理と直観、分析と総合、帰納と演繹のあいだにも、両者のいずれでもなく、しかし両方の特性を溶かし合わせた「境界の思考」が成り立ちうるはずだ。私たちはこの境界の思考を働かせることで、さまざまな形で見え隠れしている「あいだ」に意識的に視線を注がなければならない。
リーダーには「優柔不断さ」も必要
トランプ大統領の発言に戻れば、「男/女」という二項対立で人間を截然(せつぜん)と分割するのではなく、世界にはそのいずれとも言えない人々、所与の生物学的な性に違和感を抱く人々が少なからず存在するという事実を認識することからまず始めるべきだろう。これは性別に限らず、人種における混血の存在も含めて、おそらく社会のあらゆる問題について言えることである。
デジタル時計では0分から1分へと瞬時に目盛りが切り替わるが、アナログ時計ではそのあいだを針が連続的に移動する。それと同じように、仕事の上でも日常生活においても、0と1の「あいだ」にとどまってどちらつかずの状態で迷い、ためらい、性急に結論を出すことなく、決定不能状態に粘り強く耐えながらひたすら考え続ける、そんな「アナログ思考」の時間が私たちには不可欠なのではなかろうか。
もちろん、リーダー的立場に立てば日々決断を迫られることの連続であって、とてもそんな悠長なことは言っていられないというのが多くの人たちの実感かもしれない。優柔不断であることはリーダーとしての資質を欠いた姿勢であり、不適格の烙印を押されても仕方がないというのが現実なのだろう。
しかし優柔不断という言葉も、「優しく」「柔らかく」「不断(決断しない)」状態にとどまるという意味で解するならば、来(きた)るべき決断への不可欠なステップとしてポジティヴに受けとめることができるのではあるまいか。多少なりとも迷いの時間をくぐり抜けた末にたどり着いた決断には、二者択一で即座に下された決断にはない豊かな広がりやふくらみが出てくるはずだ。
アスペンのセミナーはつまるところ、「正/誤」という二元論を超えた対話、あなたと私の「あいだ」を繋ぐコミュニケーションとしての対話を通して、「優柔不断」な思考の広がりやふくらみを実感するための時間なのではないかと、私は考えている。

石井洋二郎(いしい・ようじろう)
フランス文学者・東京大学名誉教授、中部大学名誉教授
1951年東京生まれ。東京大学法学部卒業、パリ第4大学修士課程修了、東京大学大学院人文科学研究科仏語仏文学専攻修士課程修了。専門はフランス文学・思想。19世紀フランスの文学を中心に、思想・文化全般について研究する。著書に『ロートレアモン 越境と創造』『教養の鍛錬 日本の名著を読みなおす』『大人になるためのリベラルアーツ』(共著)『21世紀のリベラルアーツ』(編著)など、訳書にピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』など。
※本記事はアスペン・フェローズ会員向けサイト「アスペン・オンライン・コミュニティ」(2025年5月21日掲載)より転載したものです。
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