米国アスペン研究所創設75周年を記念して――オルテガによる構想の誕生

米国アスペン研究所創設75周年を記念して、米国アスペン研究所シニア・アドバイザー(前エグゼクティブ・ディレクター)のトッド・ブレイフォーグル氏が世界のアスペン関係者に向けて2024年10月24日に発信したメッセージを日本語版でお届けします。アスペン精神の支柱であるゲーテに焦点を当てた前回の内容に続き、今回はスペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットが提示したアスペン創成期の構想について、当時の書簡から紐解きます。(日本語訳:日本アスペン研究所事務局)

1949年にゲーテ生誕200年祭が行われたアスペンの地で、思索と対話の祭典であるアスペン・アイデアズ・フェスティバルが毎年開かれている(©Daniel Bayer)

親愛なる同僚の皆様

75年前の今週(2024年10月24日発信)、私たちにとって初となる戦略的ビジョンの素案が生まれました。草稿が書かれたのは、シカゴでもニューヨークでもワシントンDCでも、ましてアスペンでもなく、マドリードでした。筆者は、スペインの哲学者、ホセ・オルテガ・イ・ガセット。1949年の夏、オルテガは蒸気船と列車と自動車を乗り継いでアスペンを訪れ、「ゲーテ生誕200年祭」に出席しました。そこで、アルバート・シュヴァイツァーに次ぐ高名な登壇者として二本の講演を行います。一本目は大西洋を横断する船上で書かれ、二本目はアスペンの地で書かれたものです。生誕祭はオルテガの意欲を掻き立て、主催者であるウォルター・ペプケはその熱意を感じ取っていました。

山の夏が終わり、アスペンに集まった数千もの人々に別れを告げたあと、ペプケはシカゴからオルテガに手紙を書きました。生誕祭の成功を受け、オルテガに「思い切った実験」に参加し、「アスペン大学」の設立に協力してほしいと頼んだのです。10月26日付で、オルテガは返事を寄せました。「私は何をするにも全身全霊で打ち込む主義で――それこそが、物事をうまく成し遂げ、完全に自分らしくあるための唯一の方法だからです――アスペンで過ごしたあの素晴らしい2週間、私はすっかりこの身を委ね、あの雰囲気を骨の髄まで吸収しました」。そして、ペプケにこんな警告をします。大学の設立はやめたほうがいい、私がマドリードで設立したような人文学研究所を創るべきだと。なぜでしょうか?

第一に、オルテガは、大学というものが狭い専門化によって繁栄する点に着目しました。私たちが直面する問題が根本的に人間の問題であるならば、それに取り組むためには単一の専門領域では足りない。したがって、この人文学研究所は知識の専門化ではなく統合を目指すべきだと考えました。第二に、大学――特にアメリカの大学――では、物質的・技術的な分野に重点が置かれ、人文分野が軽視されているとしました。大学が知識のたこつぼ化を促す一方で、職業は行動のたこつぼ化を助長している。人文学研究所は、アメリカ文化の実用的で取引的な傾向にバランスをもたらすものでなければならない。「生きる技術」にこそ焦点を当てるべきだ、と訴えました。

オルテガはさらにこう指摘します。現代人は絶えず動き続けており、身の回りに対して不注意になっている。「産業技術がすばらしいモノで市場を埋め尽くしている」ために、私たちはたやすく気を取られてしまう。そして、物質的な快適さを志向するあまり、自分自身や他人の道徳的・精神的状態をないがしろにしているのだ。「人間一人ひとりが、物質的な妨げから解放され…内なる自己を力強く生かし、思考し、想像し、愛し、感じるために没頭できる」ことが「望ましく、不可欠」だといいます。

人文学研究所は、人よりもモノに囲まれ、モノを通じて生きようとする現代の衝動にあらがうべきだとして、次のように綴りました。

「こう言えば、私の考えが伝わるでしょうか。『アメリカ人はあまりにも多くのモノを弄びすぎる』と。その生活は、あまりにも多くの道具や、器械や、器具のたぐいにとらわれすぎています。アメリカに滞在中、私は彼らがモノのなかに迷子になる危険、モノに頼り、モノのなかで生きる危険を冒しているという印象を持ちました。というのは、それは単にモノを弄び、手入れをするにとどまらず、過度にモノの心配をし、モノを欲しがり、モノに興奮し、モノを作ったり手に入れたりすることに執着するために、自分自身や、大きな喜びや、想像力や、関心やエネルギーなどを犠牲にしているからです」

オルテガは夏の二回目の講義でこう主張しました。私たちは自己を避けることがあまりにも多い。なぜなら、「何かに真剣に打ち込むときでも、くだらない遊びでも、自身を占有するシステム」で自らの生活を満たしているからだ。人は「存在することの困難」に立ち向かうとき、どこへ行けばよいのか? 世界を理解し、互いを理解し、自分を理解するためには、どこへ向かえばよいのか? 私たちの幸福、そして自分や世界に対する責任を考えるためには?

オルテガは、物質的な誘惑から逃れやすくするためには、都市から離れることだと述べています。アスペンの地は、古代アテネの良さ(心と精神、自然、音楽と文化が息づく暮らし)と、スパルタの良さ(渓谷と町の物理的な厳しさ)を兼ね備えていると考えました。最低限の必要は満たされるが、過度ではない。当時、ホテル・ジェロームは再建されておらず、講演者も参加者もみな地元の家に宿泊しました。オルテガは、基本的な物質的必要は満たされるべきだが、過剰な快適さは人間の魂にとって障害であるとし、アスペンは物質主義と消費主義に対する解毒剤となるべきだと述べました。ペプケの教育プロジェクトにとって最悪の結果は、アスペンの町が高級ホテルに占領されることだと警鐘を鳴らしています。

まずは慎重に、そのうえで熱意を燃やそう。大学創設ではなく、私たちが直面する人間と社会の課題に統合的に取り組む人文学研究所を目指そう。過剰な物質的な快適さではなく、学びと社会生活の活力を解き放つ自然の美を求めよう。では、戦略的ビジョンの具体的な要素はどんなものだったのでしょうか?

  • 講座とセミナー:広く人文学的な研究に加え、(広い意味での)科学的知識の共有を小規模なグループで行うことを想定しています。
  • 講演:高名な思想家たちに自らの考えを広めさせ、人間の問題に同時進行で取り組む彼らの優れた知性や人格に「学生」が触れることの価値に着目しています。
  • 図書館:あまり広範でなくとも、現代の人間と社会の課題に総合的に取り組むためのリソースとして機能する文献のコレクションをさします。
  • 物理的な空間:一度に千人を収容でき、すべての人が互いを見渡せるように段差があり、参加者が自由に移動し、ともに食事をし、出会いが生まれる場。オルテガは、そのような独自の建築が教育プロジェクトにとって「不可欠」であると強調し、さらに、活動には身体を動かす運動、地元の牧場での作業、ハイキングコースの整備なども含まれるかもしれないと想像しています。

こうした基本構造は、現在の米国アスペン研究所のセミナーや政策会議、パブリック・プログラムにも通じるものがあり、現にその多くは雄大な自然の美に囲まれたキャンパスで開催されています。また、オルテガのいうような図書館はないものの、何十年にもわたって築き上げた膨大な知識の宝庫があります。

現在のアスペン・アイデアズ・フェスティバルには、マルーンベルズでのハイキングもプログラムに用意されている(©Tiffany Santini)

オルテガは、これらの要素によって、人間味あふれる学びと社会生活、知的な厳密さと実践的応用が共存する雰囲気が生み出されるといいます。「このような講座や講演、セミナーの内容は、活気に満ちた人間的なものであるべきで、科学的厳密さをもって扱う必要があるとしても、一般の人々にとって関心を引くものでなければならない」。専門知識に親しみやすさを、学びに人間味を求めたのです。アスペンの研究所は世間とは異なる特別な場であり、人間の精神がただの自己満足に終わらずに花開き、日常へ戻ったとき、活力に溢れ、知識を深め、より賢明な選択ができるようになる場であるべきだとしています。

その対象は誰でしょうか? オルテガが想定したのは、主にアメリカ人、特に「若者…のちにアメリカ社会のあらゆる分野に影響を与えることが求められる少数派のリーダー層」です。何よりも、多様な視点、信念、人生経験を持ち、対話を通じて互いに広く関わり合える人々で構成されるべきだとしています。オルテガが思い描く学びは、現状を称賛するのではなく、異なる考えのぶつかり合いから生まれるものです。その結果、物質的な経済が道徳的エコロジーに根ざした、より強くしなやかな社会の基盤を目指す次世代のリーダーが育つかもしれません。

オルテガの手紙に対するペプケの反応の記録は見当たりません。また、当研究所が戦略的に一貫した道筋を歩んできたと言うつもりもありません! 1949年12月初旬、ぺプケは「アスペン大学(Aspen University)」を法人化しました。その3週間後、「人文学研究のためのアスペン研究所(The Aspen Institute for Humanistic Studies)」として再法人化し、この名称は1989年まで使用されました。

オルテガのビジョンの要素と価値観は目を見張るもので、今なお私たちが考え続けるに値します。オルテガは、マドリードでの自らの取り組みとアスペンにおけるぺプケの活動への貢献を、既存の秩序への大いなる挑戦、文化的均質性と抑圧的エリートへの不信、機械崇拝が可能にした過剰な物質主義の否定、そしてすべての人に尊厳を与える人間的な学びの力への信念と捉えていました。

オルテガは『ドン・キホーテをめぐる省察』の中で有名な言葉を残しています。「Yo soy yo y mi circunstancia, y si no la salvo a ella no me salvo yo.」—「私は私と私の環境であり、もし環境を救うことができなければ、私は自分を救うことができない」。思考と行動は発見のプロセスであり、私たちは自分の環境と格闘することで自分自身と格闘し、その逆もまた然り。私たちは、自分自身に対する責任と世界に対する責任を切り離すことはできないのだと。

75年前、オルテガはアスペンこそ、異なる考えや体験をぶつけ合う人々の出会いと学びを通じて、その責任を探求する場になると提案しました。それは、微笑むような緑の丘と白く凍った峰々に囲まれた厳粛な環境のもと、果敢で創造的な対話が生まれる場所。人生は、オルテガが1949年6月にグレンウッド・スプリングス駅からアスペンまで車に揺られて登った、曲がりくねったでこぼこの山道に似ています。75年後の今、私たちはその曲がりくねったでこぼこ道を、より明確なビジョン、より強い決意、そしてさらに大胆な志をもって、歩み続けています。

トッド・ブレイフォーグル(米国アスペン研究所シニア・アドバイザー、前エグゼクティブ・ディレクター)

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